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FLASH素材-Satisfy Desire
日本名を騙り蛮行を働く朝鮮人たち
きち@石根さん http://ameblo.jp/disclo/entry-10023394644.html

戦中戦後の犯罪被害で見れば、朝鮮人と日本人の関係でいうと
明らかに日本人の方が被害者なんだが



正論 平成17年 11月号



引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
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満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。


 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。   


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「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた


 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。


 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。


 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。


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朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
     

博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。

昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。


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京城女子師範を卒業して朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。しかも一度では済まず、相手も変わった。兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。


救療部の関係者は悩んだあげく堕胎手術に踏み切った


医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。


「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
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中絶された胎児は、黄色人種もあれば、白人の子もいた。 
    


この「水子の譜」は上坪隆氏の著書。



引き揚げ女性の堕胎証言 元助産師ら、二日市保養所跡で水子供養
福岡・毎日新聞【福岡賢正】

毎日らしい抜き出しなんですが
ソ連兵などに暴行」としています。
もちろん当時のソ連兵の蛮行は酷かったことは言うまでもありません。

しかし二日市保養所における加害者調査では5割以上は朝鮮人です。

二日市保養所報告書 六月十日p183 "地域別と加害者"
(一部期間)


不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝2ニシテ最多、 南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ


鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、
米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ

このあたり報道の意図的なものを感じます。



「日本軍は香港で何をしたか」
謝永光 訳 森幹夫 社会評論社 平成5年

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最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四
人の女優を強姦した。前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった
~~
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。


この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ


月刊誌「DATUMS」平成7年
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医

山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。
韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリ
アンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったの
コリアンだった
。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない


「古野直也著 朝鮮軍司令部 国書刊行会」

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昭和十七年の夏、マレー半島とシンガポールからイギリス人捕虜、将校以下千人が到着し、京城及び仁川に収容所を設置する。日本はジェネーブ条約の捕虜に関する事項については調印していないが、条約の精神は尊重する旨公表していた。


下士官兵は仁川で港の貨物荷上げ労働につき、将校は京城で労働はさせない方針であった。マレー方面の将官級は台湾南部に収容されていた。
朝鮮人が李朝末期以後、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここに来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから朝鮮まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人3500人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性ゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい


敗戦後、個人的怨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。


*日本軍は出身地域ごとに連隊を組む。後から志願者で編成されたコリアは、所属すべき連隊がなく、主に、憲兵を務めた。
アジア各地では、今もなお日本軍の憲兵の残酷さが語り継がれている


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昔から日本人は語学が拙ない。地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。

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日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった


通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。

中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。



「終戦60 年秘話」

後の「韓国大使」もいた沖縄「7人の脱走日本兵」

日高恒太朗 週刊新潮



そんな激戦のさ中、小船で密かに離島へ逃げ、島の女を愛人にして遊芸に興じていた「脱走兵」グループがいた


その隊長は、後に韓国の大使にまで出世したエリート将校であった。


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沖縄戦の早い時期に米軍の手に落ちた伊江島、そして6 月3 日に砲艦射撃を受け米軍が上陸した伊平屋島。両島に挟まれた伊是名島は、沖縄本島や各離島で起きた「玉砕」「集団自決」などの悲劇を免れた「イクサのなかった島」といわれていた。


その伊是名島にサバニを漕いで渡ってきた逃亡兵らが、この島にタブーを作っ
たという見方がある。


彼らは島民にスパイ容疑をかけ、虐殺をしていたというのだ。


この事実は、昭和49 年に発刊された『沖縄県史』(沖縄戦史録2)の調査団に
よって明るみに出た。


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北隣の伊平屋島が指呼の間に見える内花集落は、博労をしていた喜納政昭(42)=当時=殺害の場と言い伝えられている。彼はサバニを自在に操って島々を渡り歩いていたことからスパイの嫌疑をかけられたのだ。


犠牲者の弟である喜納政和(72)は眉毛を逆立てて、丸い目を剥いて言う。


「あんたネ、来るのが60年遅いサ。あの連中は脱走兵の癖に、しかも戦争が終わっているのに兄を殺し、奄美から来た子供を殺し、アメリカ兵も2人か3人殺している60年間のうのうと軍人恩給を貰って、今はもう死んでしまったかという時期だろうが、こんなロクでもない兵隊に国はオレたちの税金をずっと払い続けてきたんだ。今更、何を喋っても仕方ないだろ」


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処刑の日、内花海岸には地元防衛隊、要人たちが集まっていた。喜納政昭はこの浜で、待ち受けていた逃亡兵の隊長である平山大尉射殺されたのだという。脱走兵たちは島人になりすます為、偽名を使っていた。


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先の喜納政和は、「あいつらは虐殺しただけじゃない」と怨念を込めて言う。
事実、逃亡兵の中には、既婚者でありながら祝言を挙げたり、17歳の娘に子供を孕ませたまま、島から逃げた者もいたのである。


~~


平山隊の元戦砲隊第一分隊長(82)の意見は手厳しい。
平山さんは優しい人物ではありましたが、戦後になって、沖縄の小島に逃げ
て女を捨てたという話などを聞き、軍人としては最低だと思った。昭和20 年4月20 日、平山隊の副長格だった2人の将校が八重岳で自決しています。一人は予備士官の中尉で、この人は負傷して動けなくなった。“足手まといになりたくないから自決させてくれ”と言って我々の目の前で自決されました。平山さんは私たち124 名の部隊の長だった人です。部下の自決を見ていた隊長が、米兵のいない島に逃げていたとは……卑怯だとしか言いようがない

昭和20年4月、米軍は遂に沖縄本島に上陸した。
約3 ヵ月後、守備部隊である陸軍第32 軍は壊滅状態となり、司令官の牛島満中将は自決、20 万人余りとされる犠牲者を出した。



この7人の逃亡者は共通点がありますが、さて・・・・

平山勝敏大尉
本名 申応均
沖縄戦に第24師団砲兵大隊長として参戦。
戦後、韓国軍に入隊、韓国軍砲兵育ての親と言われる
退役後、駐トルコ、西ドイツ両大使、国防科学研究所長歴任。
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こういう輩が沖縄死守の戦線に幹部として加わっていたことを調べるほうが
教科書にギャフンと一泡吹かせることが出来ますよ。


東京新聞は偉そうです http://ameblo.jp/disclo/entry-10062782501.html
筆洗http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007122802075664.html
沖縄の諸君
あなた方の先人は、死ねと言われて手榴弾を投げ返さなかったらしい。

ましてや戦陣訓を範としたなら、手榴弾を抱えて米軍に突撃したでありましょうに。
沖縄の悲劇は「伝え聞き事実残酷であった米兵」に対し、
死して陵辱を加えさせね為の最後の抵抗であります。

そこには、後に残る国への託す思いがあふれており、
時代の空気・・・を言うなら、死して護国の神とならんとする心を言う。

それを洗脳とか強制とか、散華した先人を愚弄して喜ぶ人がいるわけです。

縄戦の悲劇を語るに、
話をややこしくさせる異物の存在が忘れさられているわけで
こういった不逞の輩に触れることこそ、
先の大戦の悲劇を省みることが出来るわけです。

集団自決に某かの軍による理不尽な振る舞いがかかわるとすれば
皇軍綱紀を曲解し、守るべき国民を邪魔扱いした
「混じり物」の存在のあるかなしかを論じてみ給え^^




おまけ
この記事を読んで頭に浮かんだ動画
Korean says "I'm Japanese".

clap

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【2007/12/29 20:53 】
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